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投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 16:07:43 (231 ヒット)

夢は大きく、志は高く、人生は逞しく


現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
当サイトへの掲載をご了解いただいております。


株式会社 三菱東京UFJ銀行(現在 株式会社モビットへ出向中)
前田 憲一(高37期) 〔東京大学文学部社会学科卒〕


19836月上旬の放課後、立高2Hの教室にて。

  「演コンのキャストの役を俺にくれないか。」「・・・分かった。」


 

 私の世界観、人生観の土台は立川高校の3年間で培われました。心が折れそうになった時、いつも背中を押してくれるのは、苦労は必ず実を結ぶという信念です。

 

1.「銀行」のビジネス

 大学時代の4年間は、体育会の弓術部で練習に励む一方で、1980年代の日本社会をミクロとマクロの両面から論考しようと、京大出身の教授のゼミに入り浸っていました。大学4年の春、地球儀を眺めるように大局的な視点で物事を捉えたうえで、ダイナミックな仕事を手がけたいとの動機が生まれ、尊敬していた弓術部の先輩の誘いもあって、三和銀行( 三菱東京UFJ銀行)に決めました。
 人や情報が動くと必ずマネー(資金)も動きます。資金の流れを柱に据えて、社会をデザイ

ンするのが銀行の仕事です。銀行といえば、支店の窓口や住宅ローンぐらいしか印象がない

と思いますが、それらはごく一部分で、企業や国家の財務活動(調達と運用)サポートのみなら

ず、企業の海外進出支援やリスクの仲介など銀行の仕事のフィールドは広がっています。世の

中の仕組みを掴むには、ふさわしい仕事です。
私も最初の1年は支店で中小企業向けの融資を担当しましたが、その後は銀行内の大規模

システム開発プロジェクトで北米、欧州、香港への出張、銀行のビジネスフロー改革、新ビジネ

スの設計とマーケティング、電子マネー実験、銀行設立ビジネスへの参画などさまざまな体験

と実績を積みました。その後、証券会社でマーケット(市場)の企画を担当し、現在は消費者金

融会社で広報・広告宣伝を担当しています。
とにかく仕事が面白い。若い頃は徹夜もよくしました。目の前のことに必死でぶつかり、すべ

きことを見極め、選び取り、ひたすら力を注ぐ。「できたらいいな」というレベルのあいまいな考

え方では、おそらく何も実現しません。「必ずやるのだ」と意思決定して、その実現のため、24

時間考え、行動する。その繰り返しです。
そして仕事の本質は、チーム・組織のパフォーマンス曲線の最大化を図ること。そのため

には、いくつかの変数がありますが、個人の能力を高めるだけでは不十分。チーム全員に

ビジョンを伝え、共有し、ゴールに至るまで絶えずモチベーションを注入し続けるけるリーダー

になることです。適切なシナリオと的確な配役、そしてそれらを演出し、ライブパフォーマンス

の中でプロデュースし続ける。「この立場にいる人は、何をどう思っているのか。あの部門の人

はどうか。若い奴はどう思っているのか。」そういったことを、あらゆる角度から想定し、洞察しな

ければならない。まずは最終ゴールに至るストーリーを描く。そして、あらゆる役回りの人間に

ついて、誰をどの場所のキャスティングに使えば効果的になるかということを懸命に考える。

立高時代に行事やクラブ活動を通じて実感した体験と通じるものがあります。

 

2.立高の3年間は人生の原点

  非常に充実した3年間でした。立高生活は好奇心が尽きることがなく、3年間のうち休んだ日は、わずか4日間だけです。行事、クラブ・委員会活動、勉強を通じて、知力・体力・精神力の全てが著しく成長しました。とりわけ、神の啓示の如く、毎年大きなチャレンジが訪れ、それを乗り越えたことで、人間としての器が磨かれ、人生の礎になりました。

1年時は「苦手なものに挑戦する」。運動部に入部することでした。体を壊しかけ、途中で退部こそしましたが、体育に対する苦手意識はなくなり、スポーツの楽しさという新しい世界が開けると同時に、「何事も成せば成る。」という手応えを得ました。

2年時は「自分を表現する」。演劇コンクールで芝居をはじめて見た時、そのレベルの高さに圧倒されるとともに、“来年は出演したい”と思うほど感動したのです。2年生の6月、演コンチーフに“キャストの役をくれないか”とおずおず尋ねたところ、主演級の役を頂きました。稽古は厳しかったですが、結果は2位。全校生徒の視線が集中するなかで芝居をする心地よさ、立高祭でチームに貢献できたことの喜び。そして元来控えめな性格だった私自身が、自分を縛っていた枠を乗り越えたことが何よりも嬉しかった。この経験で一皮むけた実感があります。

3年時は「リーダーシップを発揮する」。3年有志の演コンをどうしても行いたくて、自らチーフに立候補しました。個性派揃いの面々を束ねて、舞台を創りだす難しさ。夏休みは受験勉強そっちのけで、脚本製作、キャスティング、芝居稽古、音響・照明・衣装等打ち合わせ。いろいろと悩みましたが、目指すべき地点が明確になると、自ずと1つにまとまっていくものです。総勢約80名の大所帯。やりきった達成感。リーダーシップの手応えをつかんだ気がします。

また高校入学後、数学と国語が得意科目になり、他の教科も含めて、自分でも驚くくらい集中して勉強に打ち込みました。勉強の意義や面白さを見出した3年間でもあったのです。

 

3.『廻る三度の春秋を ともに睦しむわがつどひ』

  さながら戦時中の軍事教練のような清明寮臨海教室。高校生のレベルを超越した合唱祭、演コン、応援団の技、キャンバス、文化祭のクラス展示。これらを平然とこなす立高生の優秀さ

には目を見張るばかりでしたが、誰一人として仲間を見捨てるような生徒はいませんでした。

3年間は非常に短い。しかし、人生で最も密度が濃い時間だったと多くの卒業生が述べています。多くの仲間たちと、あなたの人生をとことん楽しんで下さい。本気で飛び込めば、立川高校は必ず応えてくれます。幾たびの歓喜を生み出し、深い絆と友情を育んできた立高の伝統をこよなく愛するとき、また新しい地平が見えてくることでしょう。

 


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 15:59:39 (162 ヒット)

ITという仕事

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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システム開発会社:営業部長・鎌田 剛(1985年卒37期)
中央大学法学部法律学科卒(1992年)

 


■揺籃期
 高校卒業後、専門学校や浪人していたこともあり、大学進学は同期より3年遅れ、留年は無かったが社会人デビューも3年遅れで始まった。
 大学在学中は一応司法試験も目指していたが、択一も取れないレベルで終わり、就職はゲーム開発会社に入社することで一転して情報技術の方面に進むことになった。
 以来20年に亘って情報産業に身を置いている。

 情報産業というと、当然工業理数系のエンジニアが多いのだが、意外なことに法学部で鍛えた論理的思考力が、畑違いの世界でも威力を発揮したのである。
 法体系も一種のシステムであり、その構成、適用、解釈、などのどの局面も実にシステマチックである。情状という言葉はあるが、それすら数量化することでファジーな判断を排除する世界だ。
 このドライな思考方法が、システム開発・運用・支援・分析のどの局面でも格段に強力な威力を発揮することになる。
 IT業界を目指す人は、是非とも論理的思考力を鍛えて欲しいと思う。
 ただ、別に法学部でなくても論理的思考力は学べることはできる。
 常日頃、誰かと活発に議論すること、適当な相手が居なければ自分の中に仮想敵を作って討論すると良いだろう。

 それから、大学に進学する前に、実は専門学校時代があって、秘書向けのタイピング・コースを受講していたのだが、ここでブラインド・タッチをマスターしたことが、現在も尚、強力な武器になっている。
 世間ではIT技術者は皆ブラインド・タッチできるものだと思い込んでいるが、意外にも彼らの殆どは、所謂「五月雨打ち」で両手の人差し指で入力しているのだ。
 考えてみると当たり前の話で、わが国の義務教育課程ではタイピングの実務レベルでの習得過程が存在しないのだ。それは工業理数系の高専・大学でも同じであり、個人的に練習した者以外は、全く我流の打ち方になるのである。
 「五月雨打ち」が物凄く早い技術者も何人か知っている。
 しかし、彼らはキーボードを見ながら打たざるを得ないのである。
 ホームポジションが判らないからである。
 いくら入力が速くても、キーの位置を確認しながら打つのでは、論理的思考能力の展開には大きな開きが出てしまう。
 人間は、頭の中で得たアイディアをいつまでも留めて置く事が出来ない。
 折角素晴らしいアイディアが浮かんだのに、キーの位置を確認している内にどこかに泳いでいってしまうのは実にもったいない。
 ブラインド・タッチであれば、浮かんだアイディアを逃がすことなく文書に記録できるのだ!
 そして、この能力は、システム開発・運用・支援・分析のどの局面でも作業効率を最大限に引き上げることに貢献する。
 文系・理系を問わず、必修すべきだと思う。

■蒼天航路
 最初に就職したゲーム会社は2年で退職し、その後は、なぜか業務としては情報技術と離れられないものの、様々な業界を亘った。
 この「様々な業界」の様々な業務を横目でじっくり観察できたのも、今の私を支える糧である。
 情報技術は、今やあらゆる業務と切り離せない関係にあり、だから、ビジネスとしてはその応用する場面を良くも悪くも選好みしてはいられない状況になっている。
 一つのビジネス・モデルに拘泥せず、柔軟なビジネス・マインドを身に付けること。
 これが情報産業で生きていく上で最低限の常識である。

 後輩諸君は、情報技術は勿論しっかり勉強して貰うとして、それとは別に道草を沢山喰んで欲しい。
 出逢った機会を逃すことなく、貪欲に情報を吸収しておいて欲しい。
 失敗も糧になる。失敗は恐れずに挑戦し、全てを糧として欲しい。

■鳥瞰図
 情報産業について、どうも世間のイメージが今ひとつハッキリしないのは、技術自体が完成している訳ではないことと、全ての人間活動にドンドン関係を持ってきているので、
専門家でも境界線をハッキリ示せないからだと思う。
 そこで、ごく簡単に現状の情報産業の業態を示しておく。

 ・システム開発業
  ・開発:要件定義→開発→動作試験
  ・運用:監視、障害検知、障害対応、再発防止対策の策定・実行
  ・支援:作業者教育、資料作成、データ加工、データ入力

 ・情報コンサルティング業
  ・情報収集:網羅範囲調査、有意義抽出・集積
  ・情報分析:傾向把握、業務戦略策定・企画・提案
  ・情報コンサルティングの目的は、如何にして市場(=人間の集まり)が多数決として「お金を出してでも欲しい何か」を探り当てることにある。
  ・だから、統計学の知識以外に、心理学や人文学、動物行動学などの知識も要求される学究的な職業だと理解しておくこと。
  ・常に多方面への関心の高さを維持しておくことが要求されるだろう。

 これらは、どれか一箇所に留まって居られるものではなく、それぞれに流動的に割り当てられると考えておけば無難だ。
 いや、というよりも、どの業務についても、他の業務の経験が必ず立体的に応用できるので、むしろ積極的に色々な業務に就くようにして欲しい。

 理想的な就業順序としては下記の通り

 ・システム開発業
   ・支援→運用→開発の順に就業すると、前業務の経験が後業務の遂行に有意義な知見を提供す る。逆でも良いが、何か作業する毎に配慮が足りないことに打ちのめされる経験を味わわなければならないだろう。
   ・開発の中では、通常のプロジェクトの進め方とは逆に就業すると良い。
   ・プロジェクト:要件定義→開発→動作試験
   ・就業の順番 :動作試験→開発→要件定義
   理由は前項と同じ。
   ・動作試験を経験していない者がいきなり開発を行うと、予期しない操作を考慮せずに製造してしまい、テスト段階で多くの不具合に苦しむことになる。
   ・開発を経験していない者がいきなり要件定義を行うと、その機能を実現するために裏側で用意しなければならない機能を配慮できないため、開発の段階で
    機能不足、または深刻な工数不足に苦しむことになる。
  ・情報コンサルティング業
  ・これは情報収集部門→情報分析部門の順番で良いだろう。
  ・現場での情報収集の実態を味わった上で解析するのとそうでないのとでは、そもそも情報収集の手法を現場に指示する段階でレベルが全く異なるのだ。
  ・事件は現場で起こっているのであり、PCで分析するのはナマの情報をどれだけ現実に即して解釈していくか、にかかっているのだ。
  ・戦争で言えば索敵にあたるこの業務は、非常に多くの人員や部門の運命を左右する重要な仕事である。苦労の割になかなか具体的に評価される場面が少ないが、自分のいい加減な分析がともすれば部門や企業の経営を傾かせかねないことを常に肝に銘じて欲しい。


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 15:56:17 (157 ヒット)

 もし立高生時代の自分にアドバイスができたら


北海道立総合研究機構 地質研究所  主査 小澤 聡(高37回)


現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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この企画への協力打診を頂き、母校への恩返しのチャンスとばかりに軽率にも二つ返事でお引き受けしてしまいました。しかし不覚にも、いざ書こうと自分の半生を振り返ってみて初めて、これまで特に明確な進路目標を定めたこともなく、その時その時の興味関心や事情(成績など)での選択を積み重ねて来ただけということに気付きました。という訳でこの“手紙”では、自戒と反省を込めて『もし立高生時代の自分にアドバイスができたら(略して「もしアド」)』ということで書かせて頂きたく思います。

私は、地質研究所という公設試験研究機関に勤務しています。その名の通り(北海道の)地質を研究するところです。地質というと何かとても古い時代(恐竜がいた頃とか)の地球の歴史など、実生活とはかけ離れたことを研究する分野と思われる方も多いかも知れませんが、実は地質学は幅広い応用先がある産業や生活との結び付きも深い学問です。

例えば、私たちが日々消費する地下資源(化石エネルギー、金属、非金属、温泉、地下水など)の開発、土木工事、環境対策(地盤沈下、地層汚染(有害物質の地下浸透))、防災対策(地震、火山、土砂災害(地すべり))など、実に様々な分野で地質学が直接的・間接的に役立っています。日頃、あまり地面の下を意識することは少ないかも知れませんが、この地球上で生きていく限り地質(大地の性質)との縁は切れません。時には人の生死にも影響します。将来、地質の道に進むかどうかは別に、地質(地学)を学んでおいて損は無いと思いますよ(私は高校で地学を履修しませんでしたが... 深く反省)。

さて地質研究所は、北海道立の試験研究機関ということで、地質学分野の中でもより直接的に北海道の産業振興、防災、環境保全などに役立つ研究に取り組んでいます。私自身の目下の研究課題は、地理情報システムを活用して、地質図や地下ボーリング情報などのデータベースを開発することです。大量の地質情報をデータベース化することで、例えば地震が起きた際にどこが揺れやすいかといった解析とか、インターネットなどの電子媒体を通じて分かりやすく情報提供することなどにも役立てられればと考えています。

立高〜大学時代には楽しい思い出やそうでもない思い出もたくさんありますが、ここでは進路選択に関係することに絞って、できるだけ正直に振り返ってみたいと思います。

私は読書好きで、いわゆる乱読ですが高校時代には分野を問わず幅広く本を読んでいたと思います。色々なことに興味を持っていたので進路選択の際には、まず文系か理系かで悩みました。どちらも面白そうだったからです。結局、物理が一番得意だったこともあって理系を選択。(英語が苦手だったことも多少影響したかも知れません。伊倉先生すみません。)高3の時の担任が、物理学の大矢先生だった影響もあり、大学では地球物理学か物理学を学ぼうかなぁと漠然と考えていました。なんとなく自然科学系に引かれていた。

北海道大学を受験したのは、もちろん北の大地へのあこがれ(畑正憲さんの影響)もありますが、旧帝大でネーム・バリューがある割に入りやすかったという受験事情も多少影響したかもしれません。入学当初は地球物理学か物理学と思っていたものの、教養課程で勉強するうちに講義を受け教科書を読むだけの毎日に飽きてしまい、せっかく北海道にいるのだから野外に出て自然から直接学びたいという気持ちが高じてきました。そこで学部移行の際には説明会や先輩の話を参考に、地球物理学科では文献講読ゼミが主で野外調査は大学院からということもあり(まだ大学院進学は考えていなかった)、学科で野外調査ができるところということで地質学鉱物学科(古めかしい名前ですね)を選びました。

学科に移行してまず驚いたのは、自分から主体的に勉強しない限り、先生方は特に何も教えてくれないことです(もちろん講義はありましたが)。いきなり大人扱い?放任?された感じで面喰いましたが、読むべき文献の探し方から野外調査の段取りなどほとんどのことは大学院の先輩方が教えてくれました。自主巡検と称してあちこちと地層観察や化石採集に連れて行ってもらったり、慣れてくると今度は自分たちで企画して後輩を連れていったり。卒業論文は(大学受験より)大変でしたが指導教官や先輩方のご指導で何とかこなし、あっという間に数年が経って、研究者になろうという自覚もないまま勢いだけで大学院に進学。こういうことをしながら生活できたら良いなぁなどと思い始めたのですが、上を見ると博士課程を修了したオーバードクターの先輩方が大勢残っていらっしゃる。研究者ポストは少なく、下手をすると40過ぎまでアルバイト生活。ようやく世間の厳しい現実に気付き、まじめに就職活動しようかと思った矢先に現職場の募集があり、研究の仕事で生活できるならと思い切って大学院を中退して就職を選んだ次第。

私の場合、特に高校時代、進路を選ぶことがその他の自分の可能性を狭めることになるような気がして、なんとなく先延ばしにしてきたように思います。今にしてみると、たとえ何を選んでも、そこで何だかんだとやっている内に次の可能性がまた開けてくる。だから臆せず好きなことを選べば良いと思います。地質学を学んだ同輩もその後、大学、行政、警察(鑑識)、マスコミ、地質調査会社、教師などなど様々な分野に進んでいます。研究職に進んでも、研究の方向性をどう選ぶかで係わる世界が大きく変わってきます。

「人間万事塞翁が馬」人生における損得は人には計り知れません。先々を心配し過ぎず、興味を持った道に取りあえず進んでみるのもありかと(開き直りか?)。自分は何が好きか?結構難問です。経験してみないと分からないこともあります。高校時代には勉強、部活、立高祭、色々なことに取り組んで自分を試してみることが大切だと思います。最近は、多くの大学でオープン・キャンパスなどをやっています。また、色々な学会が高校生向けの講演会やイベントを開催しています。ぜひそういう機会を逃さず情報収集を心がけることもお勧めします。    お体大切に。立高生活を楽しんでください。


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 15:54:26 (171 ヒット)

「未来を創る」

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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狛江市立狛江第五小学校 教諭 竹谷 正明(高35期)

 

私は,東京都の公立小学校の教諭です。毎日元気な子ども達と接する楽しさ,成長する姿を間近に見られることの喜びはこの職業ならではのものだと思います。もちろん楽しいことばかりではなく,厳しい場面に出会うことも度々あります。しかし,課題に直面したときに,子どもの成長に関わる学校・保護者・地域の方々と話し合い,連携をとって乗り越えていくときに感じられる達成感もまたこの職業の醍醐味と言えるでしょう。

現在,私は東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県に,東京都からの被災県支援教員として派遣され,気仙沼市立気仙沼小学校に勤務しています。大きな災害によって子ども達の生活もより厳しさを増しています。津波などの被害のため,自宅から離れて生活しなければならない子がいます。7割の人が水産業関連の職業に就いているこの町では,保護者の多くが失職し先の見通しも立たずにいます。そのため,子ども達や保護者の心の状態もいろいろな問題を抱えやすくなっています。私にとって今回の派遣は,そういう状況の中で今までの知識や経験がどこまで生かせるかにチャレンジする機会と考え,日々を過ごしています。

教職について25年が過ぎようとしていますが,気仙沼小学校での生活は,自分が教師としてまだまだ成長できる余地があることを教えてくれています。さらに平常時の東京にいても,非常時の宮城にいても,教職に関する重要な資質は変わらないことにも気付かされました。その資質とは,3つの能力とそのベースとなる基本的な姿勢です。3つの能力とは,相手の思いを受け止めて自分の思いを伝えるコミュニケーション能力,学習事項を子ども達の実態に合わせて授業や行事として組み立てる企画立案能力,同学年の先生や管理職・関係機関の方とも連携をとって教育活動を進める組織運営能力です。そのベースにあるのが,人間という存在をより深く理解しようという姿勢です。

そして私の場合,この3つの能力の基礎は高校時代に育てていただいたのだと思います。私は立高での3年間,体育祭実行委員会(体実)に所属していました。2年生のときには委員長を務めました。その役割を果たす中で上記の能力が必要とされる場面がいくつもありました。

例えば,チームごとの都合を調整するためにキャンバスチーフや応援団長と話し合うときには一方的に体実の都合だけを伝えてもうまくいきません。ここではコミュニケーション能力が必要とされます。

また,体育祭に割り当てられた限られた予算を有効に使うためには,必要な物品をリストアップし,その項目ごとの優先順位を決定しなければなりません。準備の段取りも少し手順が前後しただけで能率がかなり違います。ここでは企画立案能力が求められます。

そして,体実の中での分担に応じて仕事を割り振ったり進捗状況を確認していったりすることや,実施計画を中央委員会などの会議で承認してもらうための連絡調整という場面では組織運営能力を発揮していかなくてはなりません。

「役割を果たす」といっても,すべてうまくいったわけではありません。正直に言えばむしろ失敗の連続でした。しかしそれでも何とか当日をむかえることができたのは,体実のメンバーに支えられ,各チームのチーフ・団長が理解を示してくれたおかげです。そういう人たちに対する「申し訳ない」という思いが,「失敗はくり返さない」という意識となって私に力を付けてきてくれたように思います。

一方で,高校の中だけでは得られない経験で,今に生きているものもあります。それは自分の生活する地域にあるボランティアグループでの活動です。私は高校生になってすぐ,地域子ども会のイベントをお手伝いしたり,夏にキャンプに行ったりするリーダーグループに所属しました。実際に子ども達と接して一番感じたことは,「子どもって思った通りに動かないものなんだな」ということです。今から考えてみれば当たり前のことなのですが,当時は思い通りに動かさなくてはと思い込んでいたのです。

進路を考えるときに,そのことが壁になりました。「自分は子ども達と接する仕事には向いていないのではないか」と悩みました。そのため,進路を考えた当初は,教職とは直接関連のない大学・学部を志望先にしていたのです。しかし,最終的には教職の道に進むことを決めました。それは,「人間と関わる仕事がしたい,人間の不思議さに触れていたい」という思いがいつも心のどこかにあったからです。その思いは,受験のために子ども達とふれあう活動から離れている間も弱まることなく,むしろ強まっていったのです。

そして,東京学芸大学を受験しました。二次試験で一番ポイントになったのが,小論文であったと思います。ある作家の作品の一部が提示され,その表現技法についての批評を述べるという問題でした。当時,立高の国語科で深澤先生にお世話になり,さまざまなレポートが課題として提出されることがくり返されていたので,さほど苦しむことなく答案を書くことができました。無事合格できたのはそのおかげが大きかったと思います。

大学の4年間は言うに及ばず,就職してから今に至るまで,地域での活動はずっと継続しています。そのことが今の自分をつくってくれたベースになっていることは間違いありません。しかし,立高での3年間がなかったら,やはり今の自分はないだろうと思います。後輩の皆さん方の中で教職を目指そうという方には,ぜひ立高での生活でより多くの人と関われる経験をしていくことと,立高の中だけでは経験できないことに触れる機会を持つことを考えていただきたいと思います。

冒頭にも書いたとおり,今,私は東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市にいます。この原稿を書いている時点で震災から半年が過ぎようとしていますが,市の中心部にはがれきの山や傾いた建物が残ったままです。実際にその光景を目の当たりにすると暗い気持ちになります。「復興」と言うけれど,いったい何年かかるのか見通しすら立たないのが現状です。しかし,気仙沼の人たちは,必ず復興させるんだという強い思いをもっておられます。まだまだ長くかかる道のり。それを支えるのは未来を担う子ども達です。その子ども達の成長に関わることができると思うと,大きな高揚感に包まれます。私たち教職に携わる者の仕事は,未来を創る仕事なのです。

 


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 15:49:15 (175 ヒット)

先輩からの手紙 〜みちのく岩手で継承する立高精神〜


現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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エフエム花巻株式会社 放送局長 アナウンサー 
落合昭彦(昭和58年卒業)

 

 

    バブル全盛期に社会人としてのスタートをきった者が多い私達の世代。現役の皆さんに比べて確かに就職活動に関しては恵まれていたのでしょうが、いざ職場に入ってみると、多くの同期にとっては、好景気を反映するモーレツに忙しい仕事が待っていました。
 そういう事情もあり、私達「高35期」は気づくと高校を出てからもう四半世紀もの間学年の同期会を1回も開いていませんでした。卒業から25年。すでに皆、40代に突入していたのです。
 そうした中、誰からというわけでもなく「そろそろ1回集まらねえか」という声が出て初めての同期会が開かれたのは、ちょうど25年の節目となる平成20年の2月。私は幹事団の一員として、本業を生かし、司会役を仰せつかったのでした。
 久々の同期、25年の月日によって、あまりに容貌が変わってしまった者あり、当時とほとんど変わっていない者あり、会場のあちらこちらで「おまえってもしかして誰それ?」と名刺を出しながら確認する場面が見られました。しかし参加者が持ち寄った懐かしい写真や立高新聞、そしてキャンバスのかけらなどを見るうちに、会場の空気は一気に25年前に戻っていたのも事実です。
 昭和55年4月。私達の(特に男子の)立川高校生活は、大きな衝撃と共に始まりました。入学式のクラス発表で配布された1枚の紙。そこにはクラスごとに生徒の名前が記載されていましたが、私の名前があるC組は上から読んでも下から読んでも男子の名前のみだったのです!当時は8クラス中3クラスがいわゆる「男クラ」でした。しかも私の場合2年生も男クラでしたから、何と64分の9という低い確率です・・・
 というわけで、あまり色っぽい想い出のないことだけは確かですが、私の高校時代を振り返ってみると、今の仕事や、モノの考え方につながる「人間の基本的な部分」が固まった時期だったのではないかと思います。
 前置きが長くなりました。私の高校時代の時間の多くは、当時の立高生の多くがそうであったように立高祭や合唱祭などをはじめとした実に多くの(しかも本格的な)学校行事で費やされました。部活については長続きしたものがない私ですが、そうした行事に向けてクラスをまとめようと奮闘したり、合唱祭やクラス展示のチーフとして生徒会執行部のメンバーと議論したりする経験は、その後、テレビ局の報道職という仕事に就く上で基本的な訓練になっていたのではないかと思います。中でも演劇コンクールとの出会いは印象的で、私はお芝居の世界にすっかり魅了され、大学に進んでからは自分で劇団を立ち上げて役者兼代表を務めたあげく、マスコミの就職試験に参戦するまでは、本気でプロの俳優になろうと考えていました。今考えれば、本当に怖いもの知らずでした。
 そんな私が立高時代、頑張ったといえることはほとんどありません。強いて言えば、校内外を問わず多くの人と知り合い、くだらないネタから社会問題まで色々な議論をしたことでしょうか。立高新聞などへの投稿や周囲の人間の話を総合すると、当時の私はかなり突っ張っていたようです。今の温厚で穏やかな私?を見ると同期はビックリしますが。
 一方、当時の私は身近な友人だけでつるむ?のにとても抵抗がありました。今思えばちょっとこだわり過ぎていたなあというほど、そのことに敏感になっていました。そこで私は学園祭の時など、積極的に周辺の高校や大学に出かけては知人を増やしていったのです。正直に言えば多くは女子高の文化祭でした(笑)。ただ、出かけた先のひとつに一橋大学があり、私は社会問題を研究するサークル活動のオブザーバーに入れてもらって、大学生のお兄さんお姉さん達と、よく国立の喫茶店で長話をしていました。どういうきっかけだったのかよく覚えていないのですが、都心にあった夜間中学などでフィールドワークをしたことも思いだします。こうした活動は報道記者やアナウンサーになってからの取材という仕事のイメージベースになりました。もちろん結果として、ですが。
 大学に入った私は、北海道から九州まで全国から集まった故郷を愛する多くの仲間と出会いました。東京を「田舎」とする私は彼らとの交流を通じて、自分が育った自分の故郷である東京を、彼らに負けずもっとアピールしたいという気持ちが生まれました。自然の豊かさを自慢する九州の友人に、ファイアーストームのあとに繰り出した多摩川の夕景の素晴らしさで対抗したことなどを覚えています。
 そんな私の東京故郷意識は、マスコミ就職の志望企業の選択でも明確になってきました。私は放送局と出版社、それぞれ20社ぐらいずつを受験しましたが、最終的に入社を決めたテレビ東京を選んだのは、一般のマスコミ志願者とは異なり関東ローカルの情報を伝えられるというちょっと変わった理由からです。
 ところが当時のテレビ東京は開局25周年を迎え、視聴率でテレビ朝日に追いつくことを目標に、全国に系列局を増やそうとしていた時期。私は例えば「立川でこんな変わった祭りがありました」などの東京情報、中でも見ている人がホッとするようなほのぼのとした話題を伝えたかったのですが、特に私の入社した年は昭和天皇が体調を崩された時。そして翌年は、社会を震撼させた連続幼女殺害事件や警官刺殺事件など、悲惨な凶悪犯罪が相次いで発生した年でした。私は、宮内庁や警視庁の記者を通じて、扱う事件そのものよりもマスコミの報道姿勢に疑問を抱き始めました。
 そういう経緯がありましたから、岩手の新しいローカル局、めんこいテレビが社員を募集した際は、全く知らない土地でしたが何の迷いもなく転職を決意しました。それから20年、私はアナウンサーや記者として四国4県分という広い県土を持つ岩手をまさにかけ回り、盛岡や岩手は名実ともに「第二の故郷」となっていったのです。お酒や温泉、そして海の幸が大好きな私は、この20年間で様々な人に出会いましたが、立高で同期のN君との出会いは運命的でした。N君は数年間、岩手大学で教鞭をとっていた時期があり、私を地元のニュース番組で見て電話をしてくれたのです!
 そして盛岡での生活が丸20年を迎えた昨年の秋、私は宮澤賢治の故郷、花巻市に新しく開局したコミュニティFMラジオ局、エフエム花巻の局長として2回目の転職をする決意をしました。それはほかでもなく、立高時代に芽生えた「地元に密着して、地元のための仕事をする」ことを更に徹底しておこなうことができると考えたからです。
 しかし今年3月の東日本大震災は、私のちっぽけなラジオ局が開局半年で迎えた大きな試練となりました。私達わずか数人のスタッフは、最初の数日間は花巻市の災害対策本部に泊まり込みで、停電や食料をはじめライフライン情報を24時間伝え続けました。災害放送は5月上旬まで続き、私は心身ともにくたくたでしたが、不思議とこれまでで最大の仕事のやりがいを感じていました。立高時代に感じ始めた自分の住む土地への愛着が、ここまでの自分を動かしてきました。東京でも岩手でも、私の思いは全く変わりません。津波の被災地を最も近くで応援する放送局で、これからも立高OBとして頑張ります。
                                                         

                                                         


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 15:29:19 (174 ヒット)

常に考え行動できる環境を求めて−外科医のすばらしさ

東京慈恵会医科大学外科学講座 
講師 脇山茂樹 
S57年卒業(高34期)

 

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○現在の仕事

私は現在、外科医という職業に従事しています。それでは外科医という仕事についてお話をしましょう。医師には外科系と内科系があり、手術を中心に行う医師を外科系医師といいます。現在は外科系も細分化され、大学病院では、外科、整形外科、心臓外科、泌尿器科、産婦人科、小児外科、形成外科などがあります。それぞれの科にはさらに専門分野があり、私の所属する外科は、消化器外科(上部・下部消化管、肝胆膵)、呼吸器外科、血管外科、乳腺内分泌外科、小児外科に分かれ、その中で私の専門は肝胆膵外科です。外科医の中でも消化器外科医、その中でも肝臓、胆嚢、膵臓などが専門の外科医というわけです。現代は癌で亡くなるケースが増加傾向で、治療対象の疾患は肝臓癌、膵臓癌、胆嚢癌などが中心です。さらに私の専門分野は肝臓、肝移植で、肝臓の血管走行などの解剖を頭の中で構築し、出血と戦いながら手術を行います。この作業は独特の環境の中で緊張感がありあまるほどあります。もちろんこれまで外科全般を勉強してきたわけですが、大学病院など専門性の高い病院では仕事は非常に特化されています。仕事は主に手術が中心ですが、手術を含めた術前管理から術後管理までが守備範囲です。また大学病院では研究や学生・研修医教育も行われていて、人間を扱う仕事であるが故、休みもなく365日働いています(もちろん時々休みますが)。朝630分出勤、23時帰宅、週2件ぐらいの手術(69時間程度)、外来・当直業務、学生講義、関連病院での勤務、研究、といったところが私の1週間です。年に510回の学会参加もあり、そこで学問を勉強します。もちろんこのような生活の中でもプライベート時間を確保することは重要と考え、家族との時間、趣味、友人との交流、息抜きなどの時間を捻出すべく、時間管理に関してはかなり進歩しました。手術後も患者ケアに追われる外科医は3K(きつい・厳しい・汚い)といわれる時代もありましたが(今もいわれているかも)、なによりも患者さんが元気になり一緒に喜べること、緊張感のある長時間の手術を完遂したという充実感、医学という学問への探求など、常に何かを考え感じられる機会を外科医という職業は与えてくれます。

 

○現在に至る経緯

私は外科医になって21年ですが、あっという間に時間が経ってしまったというのが実感です。忙しい日々である一方、それだけ充実していたのだと思います。小さいころから何かに感化されて、高い志があってこの職業に従事するようになった訳ではありません。立川高校に入学後は、野球部に所属し野球に明け暮れていました。友人にも恵まれ毎日楽しく過ごし、本当に立川高校に入ってよかったと感じておりました(今でもなお一層そう思いますが)。3年間ひたすら野球に打ち込んでいた一方で、人間としての成長や社会に出て行く準備としての勉強についてはあまり進歩が無く、また将来について考えることもあまり無かったと思います(考える時間もありませんでしたが)。ただ自分としてはひたすら目の前の何かに挑戦し、それによって喜びも悔しさも含めて心からの感動を求めていたような気がします。3年夏の野球も終わり、さてどうしようかと考えていたところ、具体性はないものの、常に未知の何かを解決するために考えられる仕事がよさそうだなと思いました。祖父が小児科医であったこともあり医学部を目指すようになった次第です。しかしながら、とても成績はおぼつかず担任の先生からは何年計画だといわれたことを思い出します。両親の郷里ということもあり九州大学医学部を目指しましたが、残念ながら予備校生活となりました。予備校では数学者の秋山仁先生の講義を聞き、“大学はどこでもいいから早く社会に出て、とにかく医者になってから勝負しなさい”と励まされ、山口大学医学部に入学しました。医学部でも周囲の友人に恵まれましたが、医学部という独特の雰囲気もありました。山口大学卒業後、海を渡り九州大学消化器・総合外科に入局しました。外科医を選択した理由は、外科医という仕事は常に忙しく緊張感や緊迫感のある中で、迅速な決断、繊細さ、人間としてのさわやかさを求められ、一方では患者さんが元気になっていく喜びを直接肌で感じることができると考えたからです。私の転帰はこのころから始まったように思います。医師国家試験に合格すると2年間の研修があります。

特に就職活動の経験もなく、研修医としてぴかぴかの一年生となりました。現在は研修医の労働時間や給与が保証されていますが、当時は労働時間はあってないようなもの、給与は微々たるものでした。そういった中で、尊敬できる諸先輩方と出会い、いわゆる“軍隊生活”を送りました(24時間ほとんど拘束)。この2年間で、自分自身の限界は自分次第で決まること、医者たるものとは何か、外科医としての喜びや誇り、時間管理の重要性などを教えられました。その後、日本初の心停止肝移植、学位取得のための研究生活、米国Los Angelesへ留学、離島(壱岐)医療の経験、2200例にもおよぶ手術経験、いろいろな地域での人との関わりなど、いろいろな経験を経て現在があります。もちろん結婚して妻、子供二人、犬一匹と幸せな家庭(妻にはだいぶ迷惑をかけたような気もしますが)もあります。私は現在、依然として外科医としてあくせく働いておりますが、やはり初心忘れず、常に考え行動することを大切にし感動を求めています。不思議なことに自分が元気だと患者さんも元気になっていきます。

 

○立高諸君に伝えたいこと

社会の一員としてまた外科医として過ごしてきた中で、ぜひ諸君に伝えたいことは、当たり前のことですが以下の4つです。

・常に考え行動する状況から感動が生まれる。

・社会のシステムについて早くから勉強し、将来の自分の方向性に役立てる。

・人との関わりは財産であり大切にする。

・時間は限られていることを強く認識する。

立高諸君が生きている今の時代は、個々を大切にする時代、個性を伸ばす時代といわれています。しかしながら、個々を大切にすることと個々が自由に生きていくこととは少し異なると思います。個々を尊重しながらもお互いに協力することが重要です。我々の外科医の世界でも個々を大切にしすぎるあまりその弊害が起こっています。研修医の個性を生かすために、全国どこでも自由に研修が受けられるようにしたことで、研修医の偏在、ひいては地域的な医師不足が起こりました。これからの時代、やはり人と人との関わり・協力は大切です。時代を超えた普遍的な考え方−“常に考え行動し、感動を求めて生きていく”−を大切にし、この伝統ある立川高校でより多くの感動を経験し、各分野での日本のリーダーを目指すよう頑張ってください。また経験した感動はぜひ後輩に伝えてあげてください。今後の皆さんの頑張りに期待し応援しています。

 


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 14:50:59 (187 ヒット)

過去、現在、未来。

 

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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三菱商事株式会社  徳永俊彦(高34期)
早稲田大学政治経済学部経済学科卒業

 

 

高校時代は野球部員でした。練習試合では負けたことのなかった国立高校が二年夏に甲子園出場し「チャンスあり!」と練習に励みましたが、三年夏は西東京大会ベスト16で敗れました。その後の三年生全員が対象の学力試験では学年で後ろから15番目で「中学(東大和四中)では学年で一、二番だったのに」と自分に絶望したものです。浪人時代は野球観戦や外国ヘヴィメタルバンドのコンサートといった娯楽も楽しみましたが、高校時代にはやらなかった勉強に力を入れました。共通一次試験(センター試験の前身)は科目数が多く一年で追いつくのは困難でしたが、受験科目を絞れる私立であれば「最難関も狙える」と考え、両親には内緒で秋口からは学習時間の多くを英語、国語、日本史に裂きました。日本史は代々木ゼミの模試で満点を取ったところ全国1位でした(1位が3人いましたが)。結果として志望の早稲田と慶應の法学部に合格しましたが、試しに受けた早稲田の政治経済学部にも合格し「卒業後のマスコミ就職に有利」(19歳の頃はテレビ局に漠然とした憧れを抱いていました)という不純な動機もあり志望を曲げて入学しました。一年間でよく取り戻せたと今度は自分に感心しましたが、今思うとこの学部選択は大きな岐路でした。

経済学科の理論経済の授業では、経済学者達が考案した多様な経済モデルを一定の前提を置いた市場環境に当てはめて条件変化による規則性を導き、実態経済で検証するというアプローチが基本であり「トービンのQ」等の興味深いモデルもあり面白い内容ではありました。しかし、阪神タイガースが日本一となった大学3年の19859月のプラザ合意(マンハッタンのプラザホテルで開催された先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議でのドル安容認)に端を発した急激な円高という理論経済では説明のつかない現象が目の前の実態経済で起きたことに、より大きな関心を持ちました。そして就職は「予測不能な実態経済に直に触れていられる仕事」という思いから総合商社がふさわしいと考えました。ここでひとつ皆さんに伝えたいのは、大学卒業後の進路選択は大学進学よりも大きな意味を持つであろうということです。大学生活では「自分は何がしたいか」という卒業後の進路について、いつも頭のどこかに置いて過ごしてほしいと思います。

1987年に入社し2年後には資金運用の仕事で中国返還前の香港に駐在しました。80年代後半は今でこそ「バブル時代」と言われますが、当時は「円高不況」が叫ばれ自動車、電機、鉄鋼等の輸出産業は危機感を募らせており、誰もが浮かれていた訳ではありません。金利低下で内需が拡大し株価や地価は高騰しましたが、バブルの恩恵を受けたのは銀行、証券、不動産等の一握りの企業や関係者に限られたというのが実感です。帰任後は本社で貿易や投資に関する商社金融の仕事に就いた後、金属製品や金属資源の事業への投資の仕事に携わってきました。会社は広範な事業を手掛けていますが一部を紹介します。総合商社は輸出や輸入の貿易事業だけではなく国内事業も行ないます。日本ケンタッキーフライドチキン(KFC)は子会社のひとつで、会社が鹿児島県に持つ大規模養鶏会社が生産した鶏肉の全てをKFCで使用しています。このように、原材料生産から最終製品の販売までの流れを付加価値の連鎖という意味で「バリューチェーン」と呼びますが、会社の鶏肉事業では原料から製品まですべてを行なっています。次に輸入事業では震災後に見直されている化石燃料を例に取ります。会社はブルネイ、オーストラリア、サハリン他の大規模ガス田に投資しており、生産される液化天然ガスを国内の電力会社に供給しています。同じく電力燃料や鉄鋼原料(鉄鋼の主原料は鉄鉱石と石炭)となる石炭はオーストラリアの世界最大の石炭生産事業の半分の権益を持ち輸入しています。日本は資源のない国ですから、資源の確保は総合商社の社会的使命です。外国の生産者から買い付けるだけではなく、事業に投資して自ら生産者となるのが近年の総合商社の資源戦略です。「商社不要論」が言われて久しいですが、私の知る25年の間は、取引仲介者からバリューチェーンの上流に進み生産者の領域に踏み込むことで会社は成長を遂げてきました。最後に輸出事業では設備機械を例にあげると、三菱の乗用車やいすゞのトラックといった工業製品を各国に販売することから、三菱重工等と共同で発電設備や鉄道の建設を請け負うという巨大プロジェクトまで様々な取組みを行なっています。製品を輸出するだけではなく、競争力の高い日本の技術も輸出するのです。

商社員は外国訪問の機会の多い仕事ですが、そこに楽しみもあります。メジャーリーグで200010月にヤンキースとメッツが争ったワールドシリーズでは、ヤンキースの優勝決定試合を仕事で訪れていたニューヨークで球場観戦し、左中間スタンドに飛び込んだデレク・ジーター選手の特大ホームランには野球小僧に戻って大喝采しました。

さて、皆さんの多くは大学生活を経て社会に出て行かれるでしょうが、世の中のさまざまな事象を見る時の、自分の「座標軸」や「ものさし」となるものを探してほしいと思います。これが持てると自分の判断や評価の基準がブレなくなるのです。私の場合は、大学時代に大変動が始まった為替と、最初の仕事で学んだ株式の相場がひとつにあります。入社してから欠かさずにドル円レート、日経平均、ニューヨークダウ、三菱商事、ライバルの三井物産、日本を代表する製造業の新日鐵、トヨタの株価をノートにつけ、今ではこの25年間の記録と照らし合せることで、今を見て将来を考える座標軸としています。政治や経済に限らず「AKB48のブレイクしている今は為替80円、日経平均1万円の水準。過去にモーニング娘。おニャン子クラブのブレイク時はどうだった?」というのもありです。ドル円ではプラザ合意に端を発した大変動が落ち着いた90年代半ばからは115円を中心軸として上下15円のゾーンでフロート(浮遊変動)し、ゾーンを抜けるとオーバーシュート(相場加熱)というのが私の相場観でしたが、2009年に90円ラインを突破してから既に3年にわたり80円台を中心とした円高水準が続いており、プラザ合意以来のパラダイムシフト(構造的変化)が起きたと考えています。

部活動に明け暮れた学業不振の劣等生の話ですが、充実したハイスクールライフを送ろうとされている皆さんが将来を考える上で、少しでも参考になれば嬉しく思います。


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 14:48:35 (287 ヒット)

「グローバルにキャリアを築く」

 

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載
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GEヘルスケア・ジャパン(株)

代表取締役社長兼CEO 川上 潤(昭和57年卒業)

東京大学経済学部、
米ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院卒


私の職業

現在、私はGeneral Electric (GE)のヘルスケア部門の日本の事業を統括する仕事をしています。 GE1892年に発明王エジソンにより創設され、従業員約30万人、世界180か国以上で事業を展開しているグローバル企業です。その一部門であるGEヘルスケアは、CTMRI等の大型画像診断装置や超音波診断装置、麻酔器、心電計、病院向け情報システム等の開発、製造、販売を行う企業です。日本ではGEヘルスケア・ジャパン(株)が日野に本社工場を置き、全国55か所の拠点を通じ日々の事業を行っています。

 

「社長」の仕事とは「企業の進むべき道を示し、社員の努力の方向性を合わせ、かつ社員が働き易い環境・制度を構築することを通じて事業の最終的な結果に責任を負う」ということでしょう。それに「グローバル企業の…」という条件が加われば、「世界に置ける日本の“立ち位置”を定義し、世界に向けて製品やアイデアを発信してゆく」ことが加わると思います。GEヘルスケア・ジャパンでは、急速な高齢化が進む日本の医療へ様々な「解決策」を提供するという方向性の下、日々、新しい医療技術、製品、サービスの開発と普及に取り組んでいます。

 

ところで私は三多摩育ちでもともと全然グローバルではありません。また、経済学部卒で理系でもありません。そんな私がハイテク分野のグローバル企業で仕事をしているというのはあまりピンと来ないことかもしれません。ことほど左様に人生は計画し過ぎても仕方ないということです。皆さんの参考までにことここに至る経験に触れたいと思います。

 

学生時代

立高では野球部でした。2年生の時の国高の甲子園行きに大変悔しい思いをしましたが、そのお蔭で真面目に「甲子園」を目指して野球に取り組めたことは良い経験になりました。三つ子の魂百までとはよく言ったもので当時の野球部での経験や教えられたこが、今になっても私の行動や考え方の基盤になっています。 大学時代はボート部。ここでもいかに「強いチームを作るか」、「その為に必要なリーダーシップとは何か?」がテーマでした。あまり夢中だったので、正直、大学では殆ど学問はしませんでした。別にそれが良いと言っているわけではありません。でも学生時代はとても短い時間なので、何か一つの事に集中して本気になってやることがあったことは良かったことだと思っています。

 

就職/留学/アメリカで働く

就職は人と違ったことをしてみたいと思っていました。当時、「経営コンサルティング」はまだ草分けの時代でしたが。「データを駆使した論理的アプローチで強いビジネスやチームを作る」仕事だと思いました。それはまさに私が野球やボートでやろうとしていたことの様に思われました。当時コンサルの会社は外資系しかなかったので、必然的にアメリカ企業の日本法人に入ることになりました。これが図らずもグローバルなキャリアへの入口になったわけです。 やがてひと通り仕事を覚えて外資系企業の日本参入戦略や日本企業の中期経営計画作りの手伝いができるころになると、次はアメリカの経営大学院に行って修士(MBA)を取ることが必然的なステップに思われました。 この時点ではグローバルで戦うという様な明確な目標は無く、若手コンサルが一般的に描くキャリアパスに乗った道という感じでした。そんなわけで米ノースウェスタン大学の経営大学院に留学し、日本の大学で勉強しなかった分を大学院で…という趣旨だったのですが、実際は学問そのものよりは「グローバル環境」に身を置いたことの方が遥かに価値のあることでした。約7割のアメリカ人と2割のヨーロッパ人、残りに1割が日本人を含めた「その他」という環境下での競争。誰もお客さん扱いはしてくれません。初めて世界における日本や日本人の位置付けを思い知らされることになりました。大学院を卒業した後は日本に帰るのでなく、アメリカに残って約3年間コンサルの仕事を現地クライアント相手にやる道を選びました。プロとして自分がグローバルな場で通用するのかを試したかったからです。不安が一杯でしたが、同時期に大リーグに来ていた野茂投手の活躍が励みになりました。グローバル環境では、世界に通用するプロとしての技が一つあれば(例:野茂のフォークボール)、周囲の尊敬を勝ち得られるとてもオープンでフェアな世界であるということを実感できる経験でした。

 

帰国/企業経営へ

帰国後はコンサルティングから離れて自ら経営者として事業を営む道を選びました。GE は優れた技術を持つハイテク企業であると同時に優れたリーダーを輩出する企業として世界的に有名で、この会社を選んだことは正しい選択だったと思います。まず、文系の私が事業をする上で革新的技術がいかに重要であるかを学べました。技術の細部を全部理解する必要はないのですが、その活用の仕方や経営に与える影響を深く理解する必要があります。また、経営者としてお手本となるような優れたリーダーが社内に多く存在していることも大きな財産でした。国籍、人種を問わず、あの人の様な優れたリーダーになりたいと思えるお手本が多数居るのがグローバル企業の強みです。学ぼうとすればいくらでも学べる環境がそこにありました。

 

こういった経緯を経て私は現在の職業に就いています。人生は一回だけなのでこれが本当にベストだったかは分かりません。でも、皆さんに私のこれまでの経験を通じてアドバイスできるのであれば、以下の3点があります。

 

立高の諸君へのアドバイス

1)    世界に出る: 今後、世界はますます連結します。世界にはスゴイ奴がたくさんいます。日本に閉じこもっていたのではより大きな成長の機会を逃してしまいます。必ずしも外国で住めという意味ではなく、何をするにしても世界に通用する「本物」を目指す視点が重要になるでしょう。目線は高く、グローバルに…

2)    リーダーシップを発揮する:グローバルな場において普遍的に通用する力が「リーダーシップ」です。リーダーシップは役職や地位でなく、その人が果たす役割です。周囲の意見の最大公約数を取って調整する力ではなく、周囲に進むべき道を示して、皆をそこに引っ張ってゆく力です。この力があれば世界で通用します。

3)    地力をつける: リーダーシップの基盤となる「地力」を形成する上で学生時代はとても重要です。地力には、単なる知識や薀蓄でなく、自分自身の世界観に根差した物事の理解を示す「教養」や、四則演算の力、数量的なセンス、コミュニケーション力等の「スキル」の両面があります。高校時代は是非これらの地力作りに集中して下さい。

 

皆さんがそれぞれの分野で実り多い高校生活を送り、豊かな未来を創っていかれることを切に願います。

投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 11:57:27 (224 ヒット)

東日本大震災への想い(最後の砦として)

 

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防衛省陸上自衛隊東北方面総監部(仙台市所在)
情報部長 荒瀬弘毅
(高29、昭和52年3月卒業)

 

(1)東日本大震災を体験して

   死者行方不明者合わせて約2万名を数えた東日本大震災からはや半年たちました。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。また、今なお住み慣れた故郷を離れ避難生活を送られている方々が10万人以上おられることを思うと心が痛みます。

私は昨年12月から仙台市に所在する陸上自衛隊東北方面総監部情報部長として勤務しております。東北方面総監部というのは、東北6県を担任する約2万名からなる陸上自衛隊東北方面隊の司令部であり、東北方面隊のトップである「東北方面総監」を文字通り情報分野でサポートすることが情報部長の役割です。

主な仕事の内容は、諸外国の軍事情報、また東北地方の地形、気象、その他国内外すべての情報を把握・分析し、それを防衛行動や災害派遣運用に生かすことです。例えば北朝鮮のテポドンが東北方向に発射されるかもしれない場合や台風・地震・津波の発生した場合には、情報組織の立ち上げから、情報収集、情報分析、情報の使用まで情報分野においての責任を持つのが当方の職務です。

当然、宮城沖地震については、近年99%発生するとされており、常に覚悟はできていましたし、また、東北方面隊としても毎年自治体、関係機関とも訓練調整等を積み重ねてきました。そのような中で「3.11」は、発生しました。すぐにヘリの映像伝送により情報を収集し、総理官邸等に即座に現場の状況を送りました。その映像は、多くの皆さんがTVを通じて見られたと思います。

発災後東北方面隊では、直ちに災害派遣を決め、人命救助活動に入りました。我々の仕事は、まず、人間が水・食糧の補給なしで生存できるといわれている72時間以内に努めて多くの人を助けることでした。今回の場合、広大な沿岸部に多くの人が被災しているのがすぐに理解できましたので、全国から集中してくる自衛隊の部隊をどこにどの規模の部隊を投入するかを決定しなければなりませんでした。このため、情報部としては被害状況、特に「救助を求めている人がどこに何人いるか」を情報収集し、分析しなければなりませんでした。他方、部隊が進入していくための港湾、道路等の状況等を情報収集することも重要でした。

被災した市町村は一時機能不全に陥っていたため、市町村からの情報よりは、むしろ携帯やメールによる全国からの救助要請がいたるところからあがってきました。また現場にすでに到着している部隊からも、逐次情報があがってきました。これらの情報は県庁でも役立ちました。

簡単に言えば、「沿岸部約100万人を一人一人、どこでどんな状態でいるのかを把握し、命が危ない人から助けていく」ことです。残念ながらすでに亡くなられた方の御遺体の収容より、命の境界にある人を努めて救うことでした。「限りある、ヘリコプターや部隊の力を優先的に使うべき人から使う。」でした。津波で濡れて寒さに凍えたお年寄りや負傷者から助けなければなりません。TV等でも「○○小学校で何名が孤立」等の多くの情報が流れていました。情報部としては、そうした情報も一つ一つ現場の部隊にチェックさせました。

しかし報道機関や市町村に対して情報提供を訴えられる被災者より、「本当に誰とも連絡が取れない孤立している人はいないか?」「連絡が取れない病人や要介護者はどこか?」が重要でした。

当初の3日間はほぼ一睡もせずに情報収集に追われました。福島原発付近の被災者の避難や、救助も実施しました。結局、自衛隊では、救助された方の全体の約70%以上にあたる約20000名の方々を救助することができました。

その後は、行方不明者の捜索、御遺体の収容、食糧や水等生活必需品の配布や入浴施設を展開する生活支援を実施しました。情報部としては、その間すべての活動に必要な情報を提供していました。8月末に防衛大臣の命令による津波による災害派遣は終了しました。現在においても、福島県において原子力災害派遣を実施しており、一次立ち入りの除染支援、30km圏内でのモニタリング等現在も多くの隊員が災害派遣活動中です。

(2)立川高校から防衛大学校へ

人生はわかりません。実は、高校入学当初は、野口英世にあこがれていたため医学部入学を目指しておりました。元八王子中学校では、内申も良かったので当然医者になれるものと思っていました。しかしながら、1年から3年まで硬式野球部に所属し、甲子園出場を目指して日夜野球一筋の生活を送ってしまい、高校3年最後の模試では、文字通り後ろから数えた方が早い順番でした。途中2学年進級時には医学部をあきらめそれなら世界中で働ける「外交官」になろうと思い文系に変更しました。しかしながら当然簡単に文系で現役合格できるわけもなく、受験した大学はすべて不合格に終わりました。

   結局一年間浪人生活をした後、一橋大学を第一志望に受験しましたが、結局は、慶応大、中央大、明治大と防衛大学校に合格しました。防衛大学校については、当時父が自衛官でしたので、浪人するなら防衛大学校を受験しないと予備校の費用は出さないと言われた前年の不合格時の約束もあり、また、受験時期が他大学に比較して早かったので、腕試しで受験すれば良いとのことで受験しました。防衛大学校も合格してしまったので、入学金をおさめるその日まで、慶応大に行くか防衛大に行くか迷ったあげくに、結局は、親元から離れて、給料(正式には学生手当、当時は月額約5万円、現在では、月額約11万円)がもらえるらしいと安易な気持ちで結局防衛大学校に入校することになりました。

   正直、「国防のために頑張る」とか、「国のために働く」とかいう意識は微塵も考えていませんでした。むしろ、「実家から出て、体を鍛えて、勉強して、それでお金がもらえるなら」くらいの軽い気持ちで入校しました。

   防衛大学校時代は、アメリカンフットボールに熱中しつつ、国際関係論を学びながら将来の幹部自衛官としての教育訓練を受け、昭和57年に卒業しました。

(2)幹部自衛官として

その後、陸上自衛隊に入隊し、宮崎県都城市にある第43普通科連隊(いわゆる歩兵部隊)において、小隊長等として約5年間勤務し現場における指揮統率能力を高め、その後、自衛隊の中の語学専門学校で1年間ロシア語を学んだのち、市ヶ谷において指揮幕僚課程という各国における陸軍大学にあたる2年間の課程を卒業しました。卒業後は愛知地方連絡部において自衛官募集の仕事に携わり、次の1年間は住友商事へ研修という形でお世話になり、モンゴル、ロシア、ウクライナとの通信電子関連の仕事等に携わることができました。それからは、札幌の部隊で中隊長として約200名の隊員を指揮し、訓練等にはげみ、その後防衛庁において5年ほど勤務したのちに、2000年から3年間、モスクワにある在ロシア日本国大使館の防衛駐在官として勤務しました。ロシア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを担当し、防衛情報の収集や防衛交流等の業務を実施しました。外務省のプロパーとしての「外交官」ではありませんが、防衛駐在官とはいうものの1等書記官、参事官として勤務させていただきました。ちょうど、「9.11同時多発テロ」が発生し、その後の米国のアフガン侵攻やチェチェン武装勢力による劇場占拠事件等いろいろな軍事情報の収集に追われました。またその他世界各国約80カ国からモスクワに来ている駐在武官との情報収集のための交流や、出張や休暇等で約20カ国を訪問できたこと等は、いろいろな意味で人生の勉強となりました。日本へ帰国後は、熊本市所在の第42普通科連隊長として約1000名の隊員を率いて各種訓練や災害派遣任務を遂行しました。イラクにも隊員を送り出しました。その後、いくつかのポストでの経験を経て、今回の大震災の現場に立つことができました。

(3)振り返って

 発災から3カ月は、文字通り不眠不休で、休みは1日しか取れませんでしたが、「今、現場にいる我々がやらないで誰がやるんだ。」の気持ちで任務に没頭しました。これは、当方一人ではなく、全派遣隊員がそのような気持ちで臨んでいたと思います。

 浪人後、本当に安易な気持ちで防大に入り、流されるまま自衛官となりましたが、今回の大震災を通じて、人のため世のために自分に何ができ何ができないのか理解できました。家族の絆、地域の絆の重要性も知ることができました。 

 決して、自衛官という職業は華やかな仕事ではありません。特別職国家公務員であり、所得番付に載るような高額納税者になることも望めません。しかし、今回の大震災では明らかなように間違いなく「国家の最後の砦」だと思います。そういう組織の一員となれて今は後悔していません。

おそらく、今後輩の皆さんは進路についていろいろと悩んでおられるでしょう。今決められないなら、とりあえず目の前の自分のやるべきことを一生懸命に実施することを勧めます。人生は何があるかわかりません。前に進むことが大切ではないでしょうか。何かの参考にしていただければ幸いです。 


投稿者: 事務局 投稿日時: 2012-2-28 11:51:16 (212 ヒット)

きっかけはいつも「出会い」


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作曲家 洗足学園音楽大学講師 神坂真理子 
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あなたが立川高校に入学されてから、はや半年あまり。高校生活にも慣れ、充実した毎日を送っていらっしゃることでしょう。私がちょうどあなたぐらいの時期といえば、立高祭に向けての応援練習で黄色い声を張り上げていたこと、憧れの先輩の美声に胸ときめかせていた音楽部の練習など、懐かしく思い出されます。今は様変わりしたようですが、私が現役の時は大きな校内行事がいくつもあり、それを中心に学校全体が動いているようでした。みんながいつ勉強していたのか不思議なくらいです。慌ただしい学校生活と並行して、私は東京芸術大学の作曲科受験に備えてレッスンに通っていました。当時、作曲科を受けるには、和声学と対位法という二つの音楽理論や、入試の課題であるソナタとフーガの作曲法を学ぶ必要があり、作曲の先生二人と、ピアノとソルフェージュそれぞれの先生のもとに毎週通っていたため、両親も1レッスンごとの謝礼を工面するのに大変だったことと思います。

音楽の道に進んだのには、父親の影響があったと思います。クラシック音楽がとにかく好きで、私が物心ついた頃、家の中にはいつもフルトヴェングラー、ハイフェッツ、コルトーなどの演奏が流れ、私は幼いながらもその影響を受けていました。

良き先生の出会いもまた、私を導いてくれたのでした。ピアノの先生から、音楽性を高めるために和声学のレッスンを勧められ、紹介されたのが芸大で教鞭を執っておられた宍戸睦郎先生です。私が中学2年の時でした。何度かレッスンに通ううち、母も一緒にお宅に呼ばれ、芸大作曲科を受けてはどうかと言われました。今でこそ、大学の情報を得る手段はたくさんありますが、その時の私と芸大との接点は宍戸先生だけで、その先生が受けろというのなら受けようと思いました。怖いもの知らずだったのです。両親にとっても未知の世界でしたし、その時代の先生は絶対的な存在でしたから、先生に娘をお任せしようと思ったのでしょう。

こうして立高に入ってからもレッスン通いが続く中、井上智子先生の音楽の授業は、音楽イコール受験勉強だった私が純粋に音楽を楽しめる時間でした。今でも覚えているのは、シャリアピンの「ヴォルガの舟歌」を聞いた時のことです。彼の、ロシアの大地そのもののような声にすっかり魅せられ、授業が終わるとその感動を伝え、もう一度聞きたいとお願いしたのです。先生は喜ばれ、早速そのレコードを貸してくださいました。物理の大矢博先生も印象に残っています。レポート提出がよく宿題になりましたが、物理が全くお手上げだった私は仕方なく、レポートはそこそこに、今聴いているレコードのことをあれこれ書いて提出しました。すると「僕もクラシックが好きです。毎晩平均レコード2枚は聴いています」とコメントをくださったのです。先生の寛容なお人柄には頭が下がります。普通なら職員室に呼び出されるところです。それ以後、先生との音楽談義の往復が続き、私はめでたく物理の単位が取れました。まわりのクラスメートは皆秀才ぞろいでしたが、私のようなトンチンカンな生徒にも、立高の先生方は分け隔てなく寛大でした。レッスン漬けの日々、学校との両立でへとへとになりながらも、不思議と心にゆとりがあったのは、立高の懐の深さのおかげかもしれません。

幸い、現役で芸大の作曲科に入った私は、個性的で才能にあふれた同期生から刺激を受けながら、次第に作曲に目覚め作曲することが面白くなっていきました。ようやく、自分がこの分野に進んだのは間違っていなかったと思えたのです。オーケストラの作品が首席となり、安宅賞を受賞するに至って、自分は作曲を続けていこうと決心しました。とはいえ、卒業後は今でいうフリーターでした。受験指導をしたり、ピアノを教えたり、伴奏をしたり。そんな時出会ったのが、童謡歌手で一世を風靡した川田正子先生でした。合唱団を主宰される傍ら、歌手活動を続けておられ、私は伴奏や編曲をさせて頂きました。日本の童謡、唱歌、叙情歌を再認識できたのは彼女の歌声からでした。この出会いをきっかけに、こどもの歌の作曲や編曲に忙しくなりました。主にビクタースタジオでの仕事でしたが、いつも締め切りに追われ徹夜が続きました。その頃、私は子ども二人の子育て真っ最中で、夫も仕事が忙しく帰りも遅いため、実家の母を頼ることも度々でした。子ども達にディズニーのビデオを見せながら仕事に没頭してしまい、ハッと気づくとビデオはとっくに終わり、子ども達はソファで寝てしまっていたなんてこともありました。このまま仕事を続けていかれるか自信を失いかけていた頃、洗足学園音楽大学の主任教授になられていた恩師の宍戸先生から講師のお話を頂いたのです。こうして、ようやく自分の定収入を得られるようになりました。

大学で和声学、対位法などの西洋音楽理論を教えながら、私のライフワークは邦楽器の為の曲を作曲することです。箏や尺八の演奏家達との活動の輪が広がり、今では私の作品の多くを占めるようになりました。尺八や琵琶などの邦楽器は、一つの音に込められた強さと美しさがあります。尺八には「一音成仏」という言葉もあるくらいです。そういう魅力的な楽器から、これまで西洋音楽の耳を養ってきた私にどのような表現ができるか模索しており、最近では邦楽器と洋楽器のアンサンブルの為の曲などを作っています。

振り返ってみると、いかに自分の人生は人との出会いによって開かれてきたかと痛感します。私に大きな影響を与えてくれた宍戸先生も川田先生も数年前に相次いでお亡くなりになり、私を音楽にあふれた環境の中で育ててくれた父も亡くなりました。でも三人は私の中で今も生きています。

今、あなたに言えることは、人との出会いを大切にして下さいということです。あなたがこれから出会う人が、あなたの人生にかけがえのない存在になるかもしれません。あるいはそのときはそうでなくても、十年、二十年後に再会し、それをきっかけにあなたと新たな絆で結ばれるかもしれません。

どうぞ、出会いを大切に、あなたの道をひたむきに歩んでいって下さい。

 


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