落合昭彦さん (高35)

先輩からの手紙 ~みちのく岩手で継承する立高精神~

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載 当サイトへの掲載をご了解いただいております。

エフエム花巻株式会社 放送局長 アナウンサー  落合昭彦(昭和58年卒業)

 

 

バブル全盛期に社会人としてのスタートをきった者が多い私達の世代。現役の皆さんに比べて確かに就職活動に関しては恵まれていたのでしょうが、いざ職場に入ってみると、多くの同期にとっては、好景気を反映するモーレツに忙しい仕事が待っていました。  そういう事情もあり、私達「高35期」は気づくと高校を出てからもう四半世紀もの間学年の同期会を1回も開いていませんでした。卒業から25年。すでに皆、40代に突入していたのです。  そうした中、誰からというわけでもなく「そろそろ1回集まらねえか」という声が出て初めての同期会が開かれたのは、ちょうど25年の節目となる平成20年の2月。私は幹事団の一員として、本業を生かし、司会役を仰せつかったのでした。  久々の同期、25年の月日によって、あまりに容貌が変わってしまった者あり、当時とほとんど変わっていない者あり、会場のあちらこちらで「おまえってもしかして誰それ?」と名刺を出しながら確認する場面が見られました。しかし参加者が持ち寄った懐かしい写真や立高新聞、そしてキャンバスのかけらなどを見るうちに、会場の空気は一気に25年前に戻っていたのも事実です。  昭和55年4月。私達の(特に男子の)立川高校生活は、大きな衝撃と共に始まりました。入学式のクラス発表で配布された1枚の紙。そこにはクラスごとに生徒の名前が記載されていましたが、私の名前があるC組は上から読んでも下から読んでも男子の名前のみだったのです!当時は8クラス中3クラスがいわゆる「男クラ」でした。しかも私の場合2年生も男クラでしたから、何と64分の9という低い確率です・・・  というわけで、あまり色っぽい想い出のないことだけは確かですが、私の高校時代を振り返ってみると、今の仕事や、モノの考え方につながる「人間の基本的な部分」が固まった時期だったのではないかと思います。  前置きが長くなりました。私の高校時代の時間の多くは、当時の立高生の多くがそうであったように立高祭や合唱祭などをはじめとした実に多くの(しかも本格的な)学校行事で費やされました。部活については長続きしたものがない私ですが、そうした行事に向けてクラスをまとめようと奮闘したり、合唱祭やクラス展示のチーフとして生徒会執行部のメンバーと議論したりする経験は、その後、テレビ局の報道職という仕事に就く上で基本的な訓練になっていたのではないかと思います。中でも演劇コンクールとの出会いは印象的で、私はお芝居の世界にすっかり魅了され、大学に進んでからは自分で劇団を立ち上げて役者兼代表を務めたあげく、マスコミの就職試験に参戦するまでは、本気でプロの俳優になろうと考えていました。今考えれば、本当に怖いもの知らずでした。  そんな私が立高時代、頑張ったといえることはほとんどありません。強いて言えば、校内外を問わず多くの人と知り合い、くだらないネタから社会問題まで色々な議論をしたことでしょうか。立高新聞などへの投稿や周囲の人間の話を総合すると、当時の私はかなり突っ張っていたようです。今の温厚で穏やかな私?を見ると同期はビックリしますが。  一方、当時の私は身近な友人だけでつるむ?のにとても抵抗がありました。今思えばちょっとこだわり過ぎていたなあというほど、そのことに敏感になっていました。そこで私は学園祭の時など、積極的に周辺の高校や大学に出かけては知人を増やしていったのです。正直に言えば多くは女子高の文化祭でした(笑)。ただ、出かけた先のひとつに一橋大学があり、私は社会問題を研究するサークル活動のオブザーバーに入れてもらって、大学生のお兄さんお姉さん達と、よく国立の喫茶店で長話をしていました。どういうきっかけだったのかよく覚えていないのですが、都心にあった夜間中学などでフィールドワークをしたことも思いだします。こうした活動は報道記者やアナウンサーになってからの取材という仕事のイメージベースになりました。もちろん結果として、ですが。  大学に入った私は、北海道から九州まで全国から集まった故郷を愛する多くの仲間と出会いました。東京を「田舎」とする私は彼らとの交流を通じて、自分が育った自分の故郷である東京を、彼らに負けずもっとアピールしたいという気持ちが生まれました。自然の豊かさを自慢する九州の友人に、ファイアーストームのあとに繰り出した多摩川の夕景の素晴らしさで対抗したことなどを覚えています。  そんな私の東京故郷意識は、マスコミ就職の志望企業の選択でも明確になってきました。私は放送局と出版社、それぞれ20社ぐらいずつを受験しましたが、最終的に入社を決めたテレビ東京を選んだのは、一般のマスコミ志願者とは異なり関東ローカルの情報を伝えられるというちょっと変わった理由からです。  ところが当時のテレビ東京は開局25周年を迎え、視聴率でテレビ朝日に追いつくことを目標に、全国に系列局を増やそうとしていた時期。私は例えば「立川でこんな変わった祭りがありました」などの東京情報、中でも見ている人がホッとするようなほのぼのとした話題を伝えたかったのですが、特に私の入社した年は昭和天皇が体調を崩された時。そして翌年は、社会を震撼させた連続幼女殺害事件や警官刺殺事件など、悲惨な凶悪犯罪が相次いで発生した年でした。私は、宮内庁や警視庁の記者を通じて、扱う事件そのものよりもマスコミの報道姿勢に疑問を抱き始めました。  そういう経緯がありましたから、岩手の新しいローカル局、めんこいテレビが社員を募集した際は、全く知らない土地でしたが何の迷いもなく転職を決意しました。それから20年、私はアナウンサーや記者として四国4県分という広い県土を持つ岩手をまさにかけ回り、盛岡や岩手は名実ともに「第二の故郷」となっていったのです。お酒や温泉、そして海の幸が大好きな私は、この20年間で様々な人に出会いましたが、立高で同期のN君との出会いは運命的でした。N君は数年間、岩手大学で教鞭をとっていた時期があり、私を地元のニュース番組で見て電話をしてくれたのです!  そして盛岡での生活が丸20年を迎えた昨年の秋、私は宮澤賢治の故郷、花巻市に新しく開局したコミュニティFMラジオ局、エフエム花巻の局長として2回目の転職をする決意をしました。それはほかでもなく、立高時代に芽生えた「地元に密着して、地元のための仕事をする」ことを更に徹底しておこなうことができると考えたからです。  しかし今年3月の東日本大震災は、私のちっぽけなラジオ局が開局半年で迎えた大きな試練となりました。私達わずか数人のスタッフは、最初の数日間は花巻市の災害対策本部に泊まり込みで、停電や食料をはじめライフライン情報を24時間伝え続けました。災害放送は5月上旬まで続き、私は心身ともにくたくたでしたが、不思議とこれまでで最大の仕事のやりがいを感じていました。立高時代に感じ始めた自分の住む土地への愛着が、ここまでの自分を動かしてきました。東京でも岩手でも、私の思いは全く変わりません。津波の被災地を最も近くで応援する放送局で、これからも立高OBとして頑張ります。