荒瀬弘毅さん (高29)

東日本大震災への想い(最後の砦として)

 

現役立高生への配布冊子(H23年版)より転載 当サイトへの掲載をご了解いただいております。

 

 

防衛省陸上自衛隊東北方面総監部(仙台市所在) 情報部長 荒瀬弘毅(高29、昭和52年3月卒業)

(1)東日本大震災を体験して

死者行方不明者合わせて約2万名を数えた東日本大震災からはや半年たちました。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。また、今なお住み慣れた故郷を離れ避難生活を送られている方々が10万人以上おられることを思うと心が痛みます。

私は昨年12月から仙台市に所在する陸上自衛隊東北方面総監部情報部長として勤務しております。東北方面総監部というのは、東北6県を担任する約2万名からなる陸上自衛隊東北方面隊の司令部であり、東北方面隊のトップである「東北方面総監」を文字通り情報分野でサポートすることが情報部長の役割です。

主な仕事の内容は、諸外国の軍事情報、また東北地方の地形、気象、その他国内外すべての情報を把握・分析し、それを防衛行動や災害派遣運用に生かすことです。例えば北朝鮮のテポドンが東北方向に発射されるかもしれない場合や台風・地震・津波の発生した場合には、情報組織の立ち上げから、情報収集、情報分析、情報の使用まで情報分野においての責任を持つのが当方の職務です。

当然、宮城沖地震については、近年99%発生するとされており、常に覚悟はできていましたし、また、東北方面隊としても毎年自治体、関係機関とも訓練調整等を積み重ねてきました。そのような中で「3.11」は、発生しました。すぐにヘリの映像伝送により情報を収集し、総理官邸等に即座に現場の状況を送りました。その映像は、多くの皆さんがTVを通じて見られたと思います。

発災後東北方面隊では、直ちに災害派遣を決め、人命救助活動に入りました。我々の仕事は、まず、人間が水・食糧の補給なしで生存できるといわれている72時間以内に努めて多くの人を助けることでした。今回の場合、広大な沿岸部に多くの人が被災しているのがすぐに理解できましたので、全国から集中してくる自衛隊の部隊をどこにどの規模の部隊を投入するかを決定しなければなりませんでした。このため、情報部としては被害状況、特に「救助を求めている人がどこに何人いるか」を情報収集し、分析しなければなりませんでした。他方、部隊が進入していくための港湾、道路等の状況等を情報収集することも重要でした。

被災した市町村は一時機能不全に陥っていたため、市町村からの情報よりは、むしろ携帯やメールによる全国からの救助要請がいたるところからあがってきました。また現場にすでに到着している部隊からも、逐次情報があがってきました。これらの情報は県庁でも役立ちました。

簡単に言えば、「沿岸部約100万人を一人一人、どこでどんな状態でいるのかを把握し、命が危ない人から助けていく」ことです。残念ながらすでに亡くなられた方の御遺体の収容より、命の境界にある人を努めて救うことでした。「限りある、ヘリコプターや部隊の力を優先的に使うべき人から使う。」でした。津波で濡れて寒さに凍えたお年寄りや負傷者から助けなければなりません。TV等でも「○○小学校で何名が孤立」等の多くの情報が流れていました。情報部としては、そうした情報も一つ一つ現場の部隊にチェックさせました。

しかし報道機関や市町村に対して情報提供を訴えられる被災者より、「本当に誰とも連絡が取れない孤立している人はいないか?」「連絡が取れない病人や要介護者はどこか?」が重要でした。

当初の3日間はほぼ一睡もせずに情報収集に追われました。福島原発付近の被災者の避難や、救助も実施しました。結局、自衛隊では、救助された方の全体の約70%以上にあたる約20000名の方々を救助することができました。

その後は、行方不明者の捜索、御遺体の収容、食糧や水等生活必需品の配布や入浴施設を展開する生活支援を実施しました。情報部としては、その間すべての活動に必要な情報を提供していました。8月末に防衛大臣の命令による津波による災害派遣は終了しました。現在においても、福島県において原子力災害派遣を実施しており、一次立ち入りの除染支援、30km圏内でのモニタリング等現在も多くの隊員が災害派遣活動中です。

(2)立川高校から防衛大学校へ

人生はわかりません。実は、高校入学当初は、野口英世にあこがれていたため医学部入学を目指しておりました。元八王子中学校では、内申も良かったので当然医者になれるものと思っていました。しかしながら、1年から3年まで硬式野球部に所属し、甲子園出場を目指して日夜野球一筋の生活を送ってしまい、高校3年最後の模試では、文字通り後ろから数えた方が早い順番でした。途中2学年進級時には医学部をあきらめそれなら世界中で働ける「外交官」になろうと思い文系に変更しました。しかしながら当然簡単に文系で現役合格できるわけもなく、受験した大学はすべて不合格に終わりました。

結局一年間浪人生活をした後、一橋大学を第一志望に受験しましたが、結局は、慶応大、中央大、明治大と防衛大学校に合格しました。防衛大学校については、当時父が自衛官でしたので、浪人するなら防衛大学校を受験しないと予備校の費用は出さないと言われた前年の不合格時の約束もあり、また、受験時期が他大学に比較して早かったので、腕試しで受験すれば良いとのことで受験しました。防衛大学校も合格してしまったので、入学金をおさめるその日まで、慶応大に行くか防衛大に行くか迷ったあげくに、結局は、親元から離れて、給料(正式には学生手当、当時は月額約5万円、現在では、月額約11万円)がもらえるらしいと安易な気持ちで結局防衛大学校に入校することになりました。

正直、「国防のために頑張る」とか、「国のために働く」とかいう意識は微塵も考えていませんでした。むしろ、「実家から出て、体を鍛えて、勉強して、それでお金がもらえるなら」くらいの軽い気持ちで入校しました。

防衛大学校時代は、アメリカンフットボールに熱中しつつ、国際関係論を学びながら将来の幹部自衛官としての教育訓練を受け、昭和57年に卒業しました。

(2)幹部自衛官として

その後、陸上自衛隊に入隊し、宮崎県都城市にある第43普通科連隊(いわゆる歩兵部隊)において、小隊長等として約5年間勤務し現場における指揮統率能力を高め、その後、自衛隊の中の語学専門学校で1年間ロシア語を学んだのち、市ヶ谷において指揮幕僚課程という各国における陸軍大学にあたる2年間の課程を卒業しました。卒業後は愛知地方連絡部において自衛官募集の仕事に携わり、次の1年間は住友商事へ研修という形でお世話になり、モンゴル、ロシア、ウクライナとの通信電子関連の仕事等に携わることができました。それからは、札幌の部隊で中隊長として約200名の隊員を指揮し、訓練等にはげみ、その後防衛庁において5年ほど勤務したのちに、2000年から3年間、モスクワにある在ロシア日本国大使館の防衛駐在官として勤務しました。ロシア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンを担当し、防衛情報の収集や防衛交流等の業務を実施しました。外務省のプロパーとしての「外交官」ではありませんが、防衛駐在官とはいうものの1等書記官、参事官として勤務させていただきました。ちょうど、「9.11同時多発テロ」が発生し、その後の米国のアフガン侵攻やチェチェン武装勢力による劇場占拠事件等いろいろな軍事情報の収集に追われました。またその他世界各国約80カ国からモスクワに来ている駐在武官との情報収集のための交流や、出張や休暇等で約20カ国を訪問できたこと等は、いろいろな意味で人生の勉強となりました。日本へ帰国後は、熊本市所在の第42普通科連隊長として約1000名の隊員を率いて各種訓練や災害派遣任務を遂行しました。イラクにも隊員を送り出しました。その後、いくつかのポストでの経験を経て、今回の大震災の現場に立つことができました。

(3)振り返って

発災から3カ月は、文字通り不眠不休で、休みは1日しか取れませんでしたが、「今、現場にいる我々がやらないで誰がやるんだ。」の気持ちで任務に没頭しました。これは、当方一人ではなく、全派遣隊員がそのような気持ちで臨んでいたと思います。

浪人後、本当に安易な気持ちで防大に入り、流されるまま自衛官となりましたが、今回の大震災を通じて、人のため世のために自分に何ができ何ができないのか理解できました。家族の絆、地域の絆の重要性も知ることができました。

決して、自衛官という職業は華やかな仕事ではありません。特別職国家公務員であり、所得番付に載るような高額納税者になることも望めません。しかし、今回の大震災では明らかなように間違いなく「国家の最後の砦」だと思います。そういう組織の一員となれて今は後悔していません。

おそらく、今後輩の皆さんは進路についていろいろと悩んでおられるでしょう。今決められないなら、とりあえず目の前の自分のやるべきことを一生懸命に実施することを勧めます。人生は何があるかわかりません。前に進むことが大切ではないでしょうか。何かの参考にしていただければ幸いです。